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Tabata Journal

『田端文士村を歩く』 第1回:文化の薫る町に吹いた風を探して

与楽寺の脇を走る、通称 "幽霊坂"。住宅地となった現在でも情緒ある閑静な街並みが残る

~ プロローグ ~ 時代を担う才能が集った町

 東西1km南北700mの小さな町、田端。およそ100年前は、文士・芸術家が集ったという。

 その代表的な作家は、芥川龍之介である。芥川が田端に移り住んだのは、大正3年、「近所にポプラア倶楽部を中心とした画かき村がある」と転入後、友人への手紙で綴っている。芥川が住み始める前の田端には、芸術家が先住していたのである。

 明治22年、上野に東京美術学校(現・東京芸大)が開校した。これにより上野周辺には画塾・研究所ができ、その後、背地として田端は学生の下宿や教職員の屋敷など、文教地区としての性格を整えてきた。画家・小杉放庵が田端を選んだのは、根津団子坂にあった画塾に通うのに便利だったからであろう。

 また、明治初期に刊行された『東京府村史』に「全村農ヲ業トシ他業ヲ営ム者ナシ」というとおり、元来田端は大部分の家が農業を営み、水田と大根や葱畑などが広がる地域だった。南側にはのどかに谷田川が流れ、台地部には雑木林がうっそうと茂り、狸や狐などが生息していた。

 陶芸家・板谷波山は、「どこの土地を選ぼうかと、さかんにあちこち捜してみたんです。当時の田端のあたりは雑木林などの生えた山で、今考えると夢のようですね。(略) もちろん空気はいいし、閑静なところで、ちょいと遙かかなたを見ると筑波山がこちらを向いているんです。適当な場所といったら、ここしかないと思いましてね」と築窯を決めた日のことを回想する。急激な宅地化もされず、農村としての性格がそのまま残った田端は、若き芸術家のアトリエとして格好の土地であったのだ。

現在の田端の街並み。駅前には高層ビル アスカタワーもそびえているが、駅のすぐそばまで切り通しの崖が伸び、商業地化されすぎない高台地区が残っていることも田端が情感のある町であり続けている一つの要因だろう

 詩人・室生犀星が転入したのは、それから暫く経った大正5年のこと。田端に先住していた同郷の友人、彫刻家・吉田三郎を慕ってのことである。以後、芋づる式に友人が友人を、さらに若い作家たちをよび、約50年間で延べ100人以上の文士芸術家が居住した。それぞれが夢や希望を抱いて創作をし、時には仲間と文学・芸術について熱く語り夜を明かしたこともあっただろう。この町で生まれた、小説、作品、同人誌など枚挙に暇がない。

 しかし、昭和2年の芥川自裁後は、文士が転居し始め、さらに昭和20年の戦火で田端の町は崩壊し、文士芸術家村も終焉を遂げた。

 芥川が自裁した35歳、その歳が目前となった僕は、田端の町を歩いてみようと思う。当時の面影は少ないが、細い路地があり風情がある。着物を着た文士、ステッキを持った芸術家とすれ違うやもしれない情緒が残っている。欲を満たす歓楽街や、下町を売りにした観光地と化していない救いが田端にはある。その魅力を文士芸術家村の欠片を拾い、想像しながら歩こうと思う。








text by Momen Ittan

illustration by Kazutomo Makabe

photo by Koji Sugawara



profile:一反木綿。1978年生まれ。田端に生まれ、田端に育ち、愛する田端の歴史探索をライフワークとする編集者。文士村の歴史を紐解くことから、地域活性化のためのヒントを探り続けている。只今まちぐるみの文化活動を思案中。滝一小学校、田端中学校卒業生

 ※ 『田端文士村を歩く』と題したこの連載では、一反木綿さんが田端の魅力を"文士村"という観点から振り返るため、時空を超えた旅に出かけます。田端で活躍した作家、芸術家たちは、当時、田端の地でどんな夢を抱き、どんな暮らしをしていたのか?この旅によって、僕らはこの地にかつて流れていた息吹を感じ取っていきます。そして、この旅を終える時、僕らは願っています。いま以上に田端の町に多彩な人材が集い、多くの交流が行われるためのヒントを得られていることを。田端が文士村と呼ばれた時代のような輝きをもう一度、放つことができるようになるために。






















※ 一反木綿さんへの取材のご依頼は、株式会社宅建 担当:阪本幸徳までお問い合わせ下さい。

text by Takuken Web