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Tabata Journal

『田端文士村を歩く』 第4回:板谷波山 「夫婦窯」

板谷波山の旧居跡。田端町は昭和20年4月の空襲で壊滅的な被害を受けた。 ほとんどの田端文士芸術家は田端を捨て転居したが、波山は戦後も住み続けた。 敷地内にあった夫婦窯は、現在は波山の故郷・茨城県築西市の 「板谷波山記念館」に移築保存されている

田端の地で名作を生み出した孤高の陶芸家

 田端には今も昔も寺が多い。田端4丁目にある大龍寺には、俳人歌人・正岡子規の他、宮廷音楽家・EHハウス、柔道家・横山作次郎、鋳金家・木村芳雨、そして、陶芸家・板谷波山の墓所がある。

 波山は、田端文士芸術家の中で最も長く田端で暮らした作家である。そして日本を代表する数々の名作を田端の工房から生み出していった。

 波山が田端に住み始めたのは、明治36年8月のこと。陶芸家として立つ決心をし、教員を辞して上京したのである。

 波山は、退職金を投げ打ち、学生時代の恩師や友人から資金援助をしてもらい、土台のない木っ端ふきの掘っ立て小屋と工房で新生活をスタートさせた。東京工業学校の嘱託となり月給を得ていたが、経済的に厳しい日々が続いた。友禅染の図案を描き、石膏像をつくり、また、蔵前にあった東京工業学校への道のりを交通費節約のため歩いた。

 しかし、それでも焼き物を生み出す窯を築くことはできなかった。並大抵ではない苦労を波山とまる夫人、そして子どもたちは経験することになった。窯用の扇形煉瓦も買えず、通常の煉瓦をまると一緒に削って使った。1年3ヶ月の月日を要してようやく完成させた窯は、その苦労をたたえ「夫婦窯」と後に称された。

 窯が完成したとはいえ、作品が売れなければ生活は成り立たず、生活のためにと、王子飛鳥山への花見客相手に製作した「飛鳥山焼」は全く売れなかった。さらに、波山は理想の陶器のためには一切の妥協を許さなかった。小さなひび一つでも入っているものなら、それを打ち壊してしまう。作家生活において完璧を求めた上、実生活においても頑固な一面があり、借金をする際にはまる夫人が出向き、波山が頼みに出かけたことはほとんど無かった。

真言宗霊雲寺派で和光山興源院と号している。 慶長年間に創建された新義真言宗の不動院浄仙寺が荒廃したため安永年間に再発足された。 本堂の屋根は戦前までは茅葺きだったが、昭和20年4月13日、戦災にあい焼失した。 板谷波山墓所。大龍寺墓所内にある板谷家の墓所。 墓石には「板谷波山 室玉蘭」との文字が刻まれている。 室は内室のことで玉蘭は妻まるの雅号。 まるは女流芸術家として活躍しマジョリカや日本画が現存する。 遺骨は郷里下館の妙西寺にも分骨された

 苦労に苦労を積み重ね、ついに報われる時が訪れる。明治40年波山が35歳の時、東京勧業博覧会に「磁製金紫文結晶釉花瓶」を出品して三等賞に入賞、44年の第二回窯業品共進会で一等賞金牌を受け、翌年には日本美術協会第49回美術展覧会審査員となった。以後、彫刻を生かした独自の文様と釉薬で次々と傑作を生み出していった。

 一方、工芸という分野を芸術として確立にさせ、昭和2年、帝展の工芸部門設置に大きな役割を果たした。これらの功績から、昭和28年、工芸界初の文化勲章受賞者選ばれるまでとなった。

 昭和38年、91年の生涯を閉じた板谷波山は、大龍寺本堂の真裏の墓所に葬られた。墓石には「波山」とほぼ同じ大きさで「室 玉蘭」と刻まれている。これは波山より5年先立ったまる夫人の雅号である。人生の浮沈を共に乗り越えた波山とまる、形ではなく真に「夫婦」と称するのに相応しい二人となり、田端大龍寺の墓所に眠る。




text by Momen Ittan

illustration by Kazutomo Makabe

photo by Koji Sugawara



























profile:一反木綿。1978年生まれ。田端に生まれ、田端に育ち、愛する田端の歴史探索をライフワークとする編集者。文士村の歴史を紐解くことから、地域活性化のためのヒントを探り続けている。只今まちぐるみの文化活動を思案中。滝一小学校、田端中学校卒業生

 ※ 『田端文士村を歩く』と題したこの連載では、一反木綿さんが田端の魅力を"文士村"という観点から振り返るため、時空を超えた旅に出かけます。田端で活躍した作家、芸術家たちは、当時、田端の地でどんな夢を抱き、どんな暮らしをしていたのか?この旅によって、僕らはこの地にかつて流れていた息吹を感じ取っていきます。そして、この旅を終える時、僕らは願っています。いま以上に田端の町に多彩な人材が集い、多くの交流が行われるためのヒントを得られていることを。田端が文士村と呼ばれた時代のような輝きをもう一度、放つことができるようになるために。























※ 一反木綿さんへの取材のご依頼は、株式会社宅建 担当:阪本幸徳までお問い合わせ下さい。

text by Takuken Web